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2024/02/24

和歌山城下の「真田堀」

和歌山市に住んでいる私は、昔から和歌山市北新にある「真田堀通り」の看板が気になっていました。当時は今ほど真田氏には興味がないとは言え、知る人ぞ知る真田氏です。

 

昔の看板は真田堀通りとしか記されていなかったのが、いまは和歌山ブルースでおなじみのと付け加えられています。昭和の時代に、古都清乃さんが歌う「和歌山ブルース」が流行し、歌詞に「真田堀ならネオン川」とあるからです。

 

 

「なぜ真田堀通り」と名付けたのか?

 

 

ずっとネットで調べたり、SNSの歴史グループで聞いてみたり、また江戸時代の地誌書『紀伊国名所図会』に彩色し、解説する「城下町の風景」シリーズの色づけを担当されている知人に聞いてみましたが、わからないままでした。歴史仲間は、江戸城と同じく、真田信幸が和歌山城普請に関わったのではないかとも・・・。

 

名前の如く、伝承によると真田氏と関わりのある堀ですが、正式には「北新町川」が正式だそうです。

 

浅野幸長の時代に堤防を築かれ、さらに徳川頼宣によって嵩上げをし、紀ノ川の洪水対策を行っていたと南紀徳川史に記されています。ところが、寛永10年(1633)に紀ノ川の洪水により町中の橋が流失し、堤防は決壊て大堤を築き直したとあります。

 

徳川頼宣が嵩上げをした堤防について、和歌山の絵図を柳川藩主の立花宗茂と松代藩主真田信幸に見せて工事の意見を求めたという話が南紀徳川史に記されているそうです。

 

水島先生の著作によれば、単なる推測ではあるが、寛永期に真田信幸が江戸城外堀普請(現在の上智大学グラウンド付近)を実施しており、その近くで紀州藩も普請を担当しているからこの名前が付いたのかもしれないとされています。

 

江戸城外堀の真田濠の普請を真田信繁の兄、真田信幸が担当したことは間違いないようですが、他にも伊達政宗や上杉家などの大名が参加していたらしいのです。なぜ真田の名前だけ濠に冠されたのかは専門家の間でもよくわからないということです。真田ファンとしては嬉しいですね。

 

 

■真田濠(真田堀)

江戸城最後の工事として徳川家光が寛永13年(1636)の天下普請の際に、現在の四ッ谷駅周辺の四谷見附橋から喰違見附までの区間を開削したお濠で、真田信幸らに命じて開削させたため、その名がつきました。

 

江戸城西側の都市形成の骨格を築いた一大事業であり、江戸城外濠の中でも高い 台地にあることから、江戸城防御の最大の要でもありました。

 

明治時代における鉄道の開通や戦災瓦礫の廃棄場となったため、昭和24年に濠は埋め立てられ、現在この区画は北半分が四ッ谷駅、南半分が上智大学のグラウンドの敷地になっています。 濠の内縁の土手上は遊歩道となっており、春には桜が咲くので絶好の散策スポットとなっています。

 

この桜は、昭和30年代に上智大学の学生有志や、紀尾井町の料亭からの寄贈によるものです。土手の遊歩道の終点が喰違見附跡となり、眼下には再び水面(弁慶豪)が現われます。周囲には迎賓館や赤坂御用地などがあります。

 

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